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店長日記
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2011年03月15日
 先日の地震より連絡が取れなかった仙台の友人と連絡が取れて、ほっとしました。彼女の家は、山側だったので被害も少なかったとか。助かって何よりだけど、亡くなられた方の事を思うと、手放しでは喜べないと話していました。
私は、何なりとと思うものの空回りが多く、無力さを実感するのみです。申し訳ないです。
2011年03月11日
この度、東北地方太平洋沖地震が発生し、それに伴い、津波も押し寄せ、甚大な被害が出ています。
皆様、大丈夫でしょうか。
知人とも、なかなか連絡が取れず心配です。
被害の状況が明らかになるにつれ、胸が締め付けられる思いです。
何もできず申し訳ありません。
亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
そして行方不明の方が1日でも早く救出されますよう心から祈っております。
2011年03月05日
 2月の半ば、小学校からの親友K子ちゃんと、出水小の5年生の時の担任だったM先生と3人で食事をする機会に恵まれました。
M先生は私にとって恩師と呼べる先生です。書くことが、さほど好きでなかった私に「思ったことを何でも書いていいんだよ。他の人と違っていても自分が感じたままでいいんだよ。」と教えて下さり、今思うと大した文でもなかったのに「ほう、これはよく書けている。」と褒めて、やる気を起こさせて下さった気がします。また、先生の魔法は作文だけに止まらず算数にも如何なく発揮されました。難問を解くと「すごい、すごい、大したもんだ。」とやはり褒めて、また難しい問題に挑戦させるといった具合で、私は先生に褒められるのが嬉しくて、頑張った気がしますが、先生は優しいだけでなくクラスがだらけないよう、時には厳しくメリハリの利いた指導で学級をぐいぐい引っ張っていかれました。あっという間の1年で6年生になり担任が代わった時は、がっかりしたことを覚えています。
子供が小学生になり、学校の行事に参加してみると先生との関係が随分フレンドリーで面食らいましたが、今はそれが普通のようです。
「三歩下がって師の影踏まず」とは、尊敬する先生に対しては怖れ多く、たとえ影であっても踏めない、ということだと思いますが、私は、この三歩という距離がとても好きです。今は、死語となっているようですが、いつまでも大切にしたいと思います。
そういえば、もう「仰げば尊し」の季節ですね。
2011年03月03日
今日は、雛祭り。女の子にとっては、とてもうれしい日です。
私も小さい頃は楽しいみでした。飾り付けが始まると、うきうきしてはしゃぐので、うるさいらしく「あっちにいっていて」と言われたものです。
ちらしずしの記憶はなく、雛あられをもくもくと食べていた記憶があります。
「ひなまつり」の歌の「少し白酒召されたか・・・・・」というのが気になり、社会人になって白酒を買ってみましたが、やはり私は、雛あられの方が。今だったらケーキかもしれません。
2011年03月01日
今日から三月。弥生です。
弥生とは、いよいよ、生い茂る、草木が芽吹くという意味だそうです。
長い冬の後、やっと暖かな春が来る。春を待つ待ち遠しさが伝わります。
我が家の庭も、ぽつぽつと木々が芽吹いています。
さあ、今年はどんな春が待っているのでしょうか。
2011年02月27日
 琥珀色をした薔薇を初めて見たのは、大学生の時です。当時、私は新宿の伊勢丹百貨店の地下のケーキ屋さんでアルバイトをしていました。バイトが終わり、疲れた足を引きずりながら階段を上がり1階に出ますと、すぐそこにバラショップがありました。確かレナウンが出していた店だと思います。その店には、たくさんの薔薇がありましたが、どれもあまり見たことのない薔薇ばかりで、そこを通るのは本当に楽しみでした。中でも、琥珀色の薔薇が素敵で、店員さんに「これは何という名前ですか?」と尋ねると「ジュリアです。」と教えてくれました。
買いたいと思いつつ、薔薇1本、1500円という値段は、あまりに高価で社会人になって、やっと1本買うことが出来た思い出の薔薇です。
2011年02月21日
 狂言師・野村万之介さんが昨年の12月25日に肺炎のため亡くなられたという記事を目にしました。
狂言師といえば、野村万作・萬斎さんしか思い浮かばなかった私ですが、昨年の5月、鹿児島で万之介さんがシテの「鈍太郎」を観る機会に恵まれ、いっぺんでファンになりました。

 演目「鈍太郎」は、西国より3年ぶりに戻った鈍太郎が本妻と愛人を訪ねますが、まさか本物の鈍太郎とは思わず二人とも相手にしません。悲観した鈍太郎は出家し修行の旅に出ようとします。それを聞きつけた二人は、何とか力を合わせ、出家を思いとどまらせようとするのですが、鈍太郎は、なかなか「うん」とは言いません。二人の説得に、ひと月を前半後半15日ずつ、互いに分け合えなどと自分勝手な注文をつけ、挙句には二人に手車をさせ得意満面に帰っていくというもの。

 とてもわかりやすい内容で、私のような初心者でも、十分に楽しめました。特に最後の場面、鈍太郎が、二人の手車に乗って帰る時、「これは誰が手車」と呼びかけ「鈍太郎殿の手車」と答えるのですが、本妻には苦々しい表情、愛人には優しい表情と、その露骨さに思わず吹き出してしまいました。万之介さんの声、飄飄とした雰囲気がぴったりで、本来なら嫌な奴のはずの鈍太郎が憎めない奴に見えてくるのは、ひとえに万之介さんのなせる技と思います。萬斎さんのように華のある方ではありませんでしたが、味があり、風のような感じがしました。
もう二度とあの狂言を観ることができないことは、とても残念ですが、一度でも、万之介さんの狂言を観ることが出来たことに感謝したいと思います。心からご冥福をお祈り致します。

 余談ながら、始まる前のレクチャートークで萬斎さんが「『鈍太郎』は私の母など、あまり好きでない狂言で・・・・・」と話されていました。陰暦では大の月(30日)、小の月(29日)があり、ひと月の前半15日をもらった愛人が得をしたのではないかと思うと、萬斎さんのお母様のお気持ちもわかるような気がしました。
2011年02月14日
 仕事のついでに、ちょっと足をのばし長崎市外海地区の遠藤周作文学館に行ってきました。
私が遠藤周作の本を初めて手にしたのは中学2年の時です。誕生日のプレゼントに「漫画よりおもしろいから騙されたと思って読んで。」と言われて頂いたのが狐狸庵先生の「ぐうたら人間学」だったような。確かにおもしろくて、それから本屋に行くたび、狐狸庵先生のシリーズをせっせと買うようになりました。本を読むことが楽しくなったのは、このおかげです。しかし、純文学の方は難しそうでなかなか「読もう」という気になれませんでした。
 中学3年の修学旅行で長崎に行き、思うところあったのか夏休みに「沈黙」という小説を読みました。哀しくて重かった小説でした。「踏み絵」を踏む、踏まない、たったひとつの行為が人生を変えてしまう。踏み絵を踏むことで神は、何を問いかけているのか。これが答えという結論は見出せません。ただ年齢を重ねるごとにほんの少しだけわかる部分もあるような気がします。
長崎市グラバー邸の近くに十六番館という資料館があり、ここに踏み絵が展示されています。木の板に銅のメダイユがはめこまれ、そこに、はりつけにされたキリストが刻まれているのですが、その踏み絵は何度も踏まれたためにすりへり、人の足の油がしみ込んでいたと。それを見て遠藤周作は「沈黙」を書くきっかけになったとか。
 遠藤周作文学館は「沈黙」の舞台となったことが縁で外海地区に建てられていますが、観光地化されておらず、「沈黙」の時代背景の匂いが今も残っています。何故、彼らが死を覚悟してまで隠れ切支丹となったのか、そしてその想いに光を当てた遠藤周作という作家。その全てを包み込んで東シナ海もまた沈黙していました。
2011年02月11日
 和田博温氏が書かれた「焼酎はおもしろい」の中の第18話・「ばあちゃんの焼酎」。
焼酎好きだったおじいさんと全くのめないおばあさん。おじいさんに先立たれたその3年後、おばあさんは倒れ、いよいよの時、「焼酎をお湯で薄めて持ってきて。」と家族に頼みます。そして、その焼酎を目の前に持ってきて「じいちゃんの匂いがするよう」と呟いたそうです。翌日、おばあさんは息を引き取ったとのこと。
じーんとくる話です。人の生活の中に焼酎がいかに溶け込んでいたか。人生とともに焼酎がある。私が焼酎だったら本当にうれしい限りです。
 あまり知られてはいませんが、出水には、かつて特攻基地がありました。いつだったか父は生き残った方から「出撃の時、頂いたお酒は、お宅の焼酎だったかもしれませんな。」と言われたことがあるそうです。この話を私にした時父は、「焼酎が人生最後の時に立ち会ったんだな。」と言ってしみじみと空を見上げていました。
 折しも今日は「建国記念日」。国を想い焼酎で一杯。
2011年02月07日
 今から40年近く前のこと、鹿児島市の繁華街の中にある天文館公園は今のように舗装されておらず、更地でグランドのようでした。そのせいか、いろいろな催しが行われていました。冬休みだったでしょうか、学校の帰りにそこを通ると人だかりが。大相撲の巡業で取り組みを終え、片付けに入ろうとしていた時だったようで、お相撲さんが目の前をうろうろしていました。小さなテントが支度部屋になっており、よくみると貴乃花関が(亡くなられた藤島親方)いるではありませんか。サインをと思いましたが付き人が多く、とても近寄れる雰囲気ではありません。カセットから流れる音楽は、リリィの「私は泣いています」で意外だった印象が残っています。
そしてそのテントよりいくつか隔てたテントで,髷を結いながら黙々とサインをしている力士がいました。ひとつ、ふたつとテントがたたまれていく中、立ちあがろうともせずサインをしています。私もサインが欲しかったのですが、私まで並ぶと、本当に日が暮れるだろうと思えて断念せざるえませんでした。その力士こそ魁傑関であり、現放駒理事長でした。
テレビで放駒理事長の姿を見る度、当時のことが思い出され、胸が痛くなります。
 亡くなった相撲好きの祖父が、「相撲は神事で力士の四股は地鎮の意味があるんだ。」
と話していたことをふと思い出しました。

新燃岳、落ち着くことを願っています。
2011年02月01日
早いもので、もうニ月。
寒さが残っているため、さらに衣を着る月だから「衣更着」。草木の芽が張り出す月であるから「草木張月」。陽気がさらに来る月であるから「気更来」。名前の由来はさまざまですが、二月というと自然の厳しさを思い浮かべます。

一月は、いろいろなことがありました。今月は、どんな月になるのだろうと思います。新燃岳の噴火など、今も続いています。

厳しい時を耐え忍んだ後は、どうぞ穏やかな春が訪れますように。
2011年01月30日
この度「焼酎はおもしろい 人と酒をつむぐ45話」という本が発売されました。作者は、焼酎をこよなく愛す鹿児島県出身の和田博温氏です。蔵のこと、飲み手のこと深い視点に立って書かれています。ほろっときたり、「なるほど」と納得したり、あっという間の45話です。

「人それぞれにおいしい焼酎がある・・・・・・・」
そうですね。

雪がちらつく寒い日には、心が温まりとても幸せな気分になる本です。
2011年01月27日
 先日、さつま町の㈱ジクヤ精工の社長・軸屋敏宏さん宅へ「出水兵児」の配達に行きました。軸屋さんは知る人ぞ知る焼酎のコレクターで一部屋、焼酎で埋め尽くされています。プレミア焼酎を集めるのではなく、今は使用されなくなった透明瓶の時代のものや、今はなき蔵の焼酎をとても大切に飾っておられます。新屋酒造のものもあり、ジーンとこみ上げるものがありました。「杜氏さんに見てもらいたいな。」とおっしゃった一言に「ものつくり」への同じ匂いを感じました。たかが焼酎、されど焼酎です。
その1本の歴史、重さを切に感じ取っておられ方は、そういません。ある意味もう誰からも忘れ去られたものへ深い愛情を注ぐ。棚の焼酎たちは照れながら「えへっん」と胸を張っているようでした。
また、奥様がとても素敵な方で、ご夫婦、同じ思いで焼酎を集めておられます。おふたりの優しさが焼酎を引きよせた気がします。
奥様が結婚当時の苦労話を笑顔で話してくださいましたが「良い勉強をさせてもらった。」とさらっとおっしゃるので、頭が下がりました。ゲゲゲの女房ならぬ薩摩おごじょ、ここにありです。料理もとてもお上手で、ささっと作られテーブルは1品、2品と増えていきました。「ほうれん草の胡麻和え」は絶品でした。
こんな配達なら、喜んで。

2011年01月25日
今朝、南日本新聞25面に、お好み焼き「たこ八」が掲載されていました。
高校時代、よく行っていたお店で、土曜日のお昼は、よく焼そばを食べて帰ったものです。
当時は「お姉ちゃん」と呼んでいたので、今回初めて本名を知りました。タマエさんというお名前だったのですね。
それから年齢も初耳。

いつも明るくて、元気を頂いていました。ありがとうございます。あの笑顔は変わりませんね。
高校卒業後、高校にも、たこ八にも行った記憶がありません。
是非1度、訪ねてみたいものです。
2011年01月23日
 昨日は、友人の子供さんの結婚式に御招き頂きました。結婚式が、いつのまにか次世代へと移り、月日の経つ早さを実感しています。子供たちの学生の頃を知っているだけに「こんなに大きくなったんだな。」と思うとこみ上げるものがあります。
親世代として何ができるのかと考えながら、心から幸せを願った1日でした。
2011年01月19日
昨夜は久しぶりに高校の同級生が集まりました。
生活している場所も職種も様々ですが
一気にあの頃に戻れるから不思議です。
おいしいものも食べることが出来て幸せでした。

ちなみに鹿児島市は出水市より暖かく、着込みすぎたような。
2011年01月18日
このところ寒い日が続いています。
先日のセンター試験では雪の所も多く、受験生の皆さんは、さぞかし大変だったことと思います。
しかし、これからが本番です。
風邪など引かぬように健康には十分注意して実力を発揮してほしいものです。
桜咲くころの入学を信じて頑張って下さい。
親子共々、踏ん張り時です。
2011年01月14日
出水小学校の校門です。藩政時代はここに御仮屋が設けられていました。出水は肥後と国境を接する要地であるため、島津義久は自らここを隠居所と定め、わざわざ門を帖佐から移転しましたが、その後、都合により義久の移住は実現せず、この門だけは今もそのまま残されています。
私の母校です。
懐かしいな。
2011年01月11日
昨日、1月10日は恵比寿祭り。市内15ヶ所で恵比寿祭りが執り行われたようです。私は阿久根市倉津地区の恵比寿祭りに呼んで頂きました。倉津地区は港町なので、海の神様でもある恵比寿様を先祖代々ことのほか大切にされています。お正月はもちろんですが、この地区の方々は「恵比寿様、今年も1年よろしくお願いします。」と御祀りして初めて新しい年を御迎えしているのではと感じました。

阿久根市といえば何かと政治のことが話題となりますが、粛々と伝統を守り続けている市民の姿も是非知って頂きたいと思います。
2011年01月10日
昨日、市街地から外れた田んぼで鶴を見かけました。
4羽でしたので1家族だろうと思います。

出水の鶴といえば、鶴展望所のある荒崎地区が有名ですが、何気なく田んぼにいる鶴も風情があり、なかなか良いものです。鶴は家族愛が強く、単独では行動しないそうです。出水の地で怪我をして飛べずに北紀行できなくなった鶴に最後まで離れず、翌年1番に飛来した鶴の話など、鶴にまつわるいろいろな話があります。

現在、小康状態である鳥インフルエンザが1日も早く終息し、のどかな出水の姿を取り戻してほしいと切に願います。
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