店長日記
出水市特攻碑慰霊祭
2011年04月26日
さる4月16日に出水市特攻碑公園内広場において第52回出水市特攻碑慰霊祭が執り行われました。毎年、父が参列させて頂いておりますが、今年は父が風邪気味で、付き添うかたちで私も始めて参列させて頂きました。
特攻というと鹿児島県においては、知覧が有名で出水のことは、あまり知られていません。
元々、出水は特攻基地ではなく、昭和15年に出水海軍航空隊として発足し航空母艦の飛行隊として活躍していました。昭和18年に真珠湾攻撃部隊が去ったのち、その後練習航空隊として開隊発足。昭和19年に763航空隊(銀河隊)が編成され、フィリピン・クラーク基地に進出し、特攻攻撃を始め、度重なる戦闘の結果遂に壊滅状態となりました。司令を含む隊員達はそのままクラーク基地に残り、一部搭乗員を内地帰還させた後、陸戦隊として終戦を迎えることなりました。
一方、出水基地では帰還した搭乗員を含めて、戦力の再建・強化が図られ、戦局が厳しくなった昭和20年に日本海軍は第五航空隊を編成、司令部を鹿屋に置き、所属の航空隊を鹿屋・宮崎・出水・国分・大分などに展開させました。この艦隊が特別攻撃隊です。出水には、先に再建・強化を図られた銀河隊、攻撃405・406が配置され、3月18日以降、特別攻撃が続けられました。出水基地に最後の足跡を残して特攻出撃し、散華された銀河隊員は200余名といわれています。その後、銀河隊に代わり松島・豊橋両航空隊の陸航空隊四次に分かれて進出。この攻撃隊も甚大な被害をうけ結果、残存部隊はそれぞれ原隊復帰し、それ以後の出水基地は出撃機の中継基地と化し暫時、戦闘331飛行隊が移駐したものの所属の飛行隊はなくなり8月15日の終戦を迎えました。
(出水市特攻碑顕彰会資料より抜粋)
私は出水にいながら、特攻の詳しいことは何ひとつ知らず、阿川弘之氏の「雲の墓標」をおぼろげに覚えているだけでした。この日の慰霊祭に先立ち遺影台に遺影が飾られ、いつもは静かな公園が実は大きなものを背負って存在しているのだということを実感しました。若者たちは、どんな想いを胸に抱いてあの空へ向かっていったのでしょうか。送りだした母親は、どんな想いだったのでしょうか。いろいろなことを考えていると、涙が止まらなくなりました。命をかけてこの国を守った方がいて、今日の私は在るのだとういうこと。顕彰と慰霊は何より大切ではないかと感じました。
時折、桜の花びらがゆっくりと舞って、穏やかな時間を刻んでいました。
特攻というと鹿児島県においては、知覧が有名で出水のことは、あまり知られていません。
元々、出水は特攻基地ではなく、昭和15年に出水海軍航空隊として発足し航空母艦の飛行隊として活躍していました。昭和18年に真珠湾攻撃部隊が去ったのち、その後練習航空隊として開隊発足。昭和19年に763航空隊(銀河隊)が編成され、フィリピン・クラーク基地に進出し、特攻攻撃を始め、度重なる戦闘の結果遂に壊滅状態となりました。司令を含む隊員達はそのままクラーク基地に残り、一部搭乗員を内地帰還させた後、陸戦隊として終戦を迎えることなりました。
一方、出水基地では帰還した搭乗員を含めて、戦力の再建・強化が図られ、戦局が厳しくなった昭和20年に日本海軍は第五航空隊を編成、司令部を鹿屋に置き、所属の航空隊を鹿屋・宮崎・出水・国分・大分などに展開させました。この艦隊が特別攻撃隊です。出水には、先に再建・強化を図られた銀河隊、攻撃405・406が配置され、3月18日以降、特別攻撃が続けられました。出水基地に最後の足跡を残して特攻出撃し、散華された銀河隊員は200余名といわれています。その後、銀河隊に代わり松島・豊橋両航空隊の陸航空隊四次に分かれて進出。この攻撃隊も甚大な被害をうけ結果、残存部隊はそれぞれ原隊復帰し、それ以後の出水基地は出撃機の中継基地と化し暫時、戦闘331飛行隊が移駐したものの所属の飛行隊はなくなり8月15日の終戦を迎えました。
(出水市特攻碑顕彰会資料より抜粋)
私は出水にいながら、特攻の詳しいことは何ひとつ知らず、阿川弘之氏の「雲の墓標」をおぼろげに覚えているだけでした。この日の慰霊祭に先立ち遺影台に遺影が飾られ、いつもは静かな公園が実は大きなものを背負って存在しているのだということを実感しました。若者たちは、どんな想いを胸に抱いてあの空へ向かっていったのでしょうか。送りだした母親は、どんな想いだったのでしょうか。いろいろなことを考えていると、涙が止まらなくなりました。命をかけてこの国を守った方がいて、今日の私は在るのだとういうこと。顕彰と慰霊は何より大切ではないかと感じました。
時折、桜の花びらがゆっくりと舞って、穏やかな時間を刻んでいました。